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History of Isuzu Piazza

   
  

 

 いすゞ・ピアッツァ ISUZU PIAZZAは、1979年3月のジュネーブ自動車に出品されたイタリア人カー・デザイナーのジョルジェット・ジウジアーロGiorgetto GiugiaroデザインのAsso di Fiori <Ace of Club>をプロトタイプとし、1981年5月13日に誕生した流麗なボディを持つクーペである。以後、1991年8月まで約10年以上に渡って販売された。長い歴史の中で、プロトタイプのAssoも含めて、大きな出来事を挙げれば次の5つだろう。

 @ プロトタイプ アッソ・ディ・フィオーリ (1979.3)
 A シニア感覚 ピアッツァ誕生 (1981.5)+ ネロ追加 (1981.5)
 B Gの美学 ターボ車追加 (1984.6)
 C ダンケシェーン イルムシャー追加 (1985.11)
 D 新しいしなやかさ ハンドリング・バイ・ロータス追加  (1988.6) 

 これら5つの出来事に大きく絞り込み、当時の資料(雑誌、新聞)によりピアッツァの歴史を振り返ってみたい。モデル追加やその内容等の細かいことは、ピアッツァの総合サイトであるJR East Japanのデータベース <Yearbook>を見ることをお奨めします。

 

1. Prototype ASSO DI FIORI, Ver. 3 (2004.12.6)

   
 

Car Graphic (1979.5)のアッソ特集

 

 ピアッツァの原型となったのは、1979年3月のジュネーブの自動車ショーに展示されたアッソ・ディ・フィオーリ Asso di Fiori(以下、アッソ)である。アッソ・ディ・フィオーリとはトランプでいうクラブのエースという意味である。このアッソの誕生の経緯については、当時の雑誌等を見るとと断片的にしか書かれていないので、ひとつの話しにまとめてみることにした。ところで、Ver. 2となっているのは、開発時期がはっきりしていないことが多く、分かった時点で書き直していくためです。なので、一部推測で書いてあります。ご存知の方がおられましたらご教示下さい。

 2003年9月19日に、当時の資料ではありませんが、「ラピタ」 (2001.8)と「NAVI」(2001.10)、2004年4月4日にピアッツァの開発に関わられたいすゞ関係者執筆による『自動車と設計技術』(大河出版, 1983.11)の記述を追加しました。

 ()内の数字は、参考文献番号である。参考文献は出版年順に並べてあるので、本文中の番号が一から始まらないことをご了承下さい。

 

1977年 Super GeminiとSmall Super Car
   

 
 1977年夏、日本全国がかつてないスーパーカー・ブームに沸くその頃、ピアッツァの胎動は始まった。ピアッツァ誕生には大きく3つの流れがあったようだ。


1. 宮川秀之氏のSSC

 イタル・デザインのジェルジェット・ジウジアーロの良き友人である宮川氏はある自動車評論家との、スーパーカー・ブームで興味を抱いた子供たちのクルマへの興味を持続させてやりたい、そんな雑談から日本の国情に適した小型スーパーカーの構想を抱くようになった。これがSSC (Small Super Car)計画である(一)。

 

SSCのコンセプト

  「コンパクトで実用性が高く、しかもスーパーカーとしてのディグニティを持ち得る車」

 宮川氏は以前から、ジウジアーロと共に開発に携わった117クーペの後継モデルについて語り合い、その実現を夢見てきた(三)。宮川氏の構想を<推測:基にして、イタル・デザイン内で企画を作り>、いすゞ自動車に打診した (一) 。1977年9月のことである(「NAVI」 2001.10より)。(追記:「ドライバー」誌1979.6.20号によれば、9月(とは書かれていないが、例年9月開催なので)のフランクフルトショーでの、T主査とジウジアーロの雑談がきっかけとある)(『光芒 : いすゞ乗用車開発の軌跡』によれば、トリノショー訪問時に打診した、とある)。
 1968年に117クーペが世に出た後も、いすゞ自動車とイタル・デザイン、そしてデザイナーのジウジアーロとの関係は続いており、いろいろなスタディが行われていた(九-3)。いすゞの首脳部は、宮川氏の構想に理解と興味を示した(一)。

2. いすゞ自動車の「スーパー・ジェミニ」計画

 いすゞ自動車は、数年前よりポスト117クーペの開発を行ってきていた(十一)。スーパーカー・ブームの中、イメージ・リーダーとしてのスーパー・ジェミニが企画されていた(二)。それは2シーターのスポーツ・カーと、スペシャルティーカーの二面から検討されていた(十一)。2シーターのスポーツ・カーは、以前製作したミドシップ・スポーツ・カーのMX-1600の流れを組むような純スポーツであった(二)。しかし、これは販売面から反対され、新時代のいすゞのイメージリーダーは、スペシャルティーカーの性格付けが施されることになった(十一)。いすゞ社内呼称は、スーパー・スポーツ・ワゴン (Super Sports Wagon)を意味する「SSW」である(九-3)。

3. いすゞ自動車のデザイン・ポリシーの変化

 当時のいすゞ自動車工業デザイン部部長の井ノ口誼さんのインタビュー記事によれば、「わが社のデザインフィロソフィーを端的に表現すれば、3S - Suitable, Solid, Simple - つまり、目標に適正度の高い主張を持たせること、充実した内容で洗練度が高く信頼を得ること、異種合一の結果明快なまとまりがあること」とし、

 

 「これからの”いすゞ”の車は、「ピアッツァ」や「ファーゴ」のようにシンプルなスタイルの中に、しなやかさ、つややかさ、緊張感を合わせ持ったカプセルを志向します」

 以上、「いすゞ自動車「ピアッツァ」のスタイルがいすゞデザインの証」 宣伝会議別冊 (1982.12)

 ここから、いすゞ自動車のデザイン・ポリシーになる「カプセル・フォルム」が新型自動車から始まっている。


 [註] 宮川秀之氏 宮川氏はジウジアーロの友人で、イタル・デザイン社の創始者の一人で、イタル・デザインの主にアジア地域の顧客の窓口を務めた。ネット検索した結果を総合すると、現在はイタリアのトリノ市で地域開発プランニングの会社を経営し、また、民間外交官として伊日文化交流センターの代表も務められている、ようである。
 

 

1978年 SSW
  

 

 SSCに興味を示したいすゞ首脳部であるが、新車開発には最も慎重と言われるだけに簡単にOKを出さなかった(三)。しかし、117クーペの後継車となるかもしれないということでその提案を受け入れプロジェクトを進めることにし(「NAVI」 2001.10より)、ジェミニのシャシー(九-4)とエンジン(三)を、利用して1979年のジュネーブの自動車ショーに展示するショー・モデル(三)を1台製作することで合意した(九-4) [補足:合意したのは1978年5月(「NAVI」 2001.10より)]。
 開発に当たって、いすゞからイタル・デザインに提示した条件はごくわずか(「NAVI」 2001.10より)。企業経営上の問題から、何から何まで新しく作るのではなく、既存のコンポーネンツを利用して作り上げる方法を採用するため、ベースはジェミニ(十二)。話題となるような斬新なスタイリング、2+2プラスアルファの居住性と実用的なラゲッジルームを備えること(「NAVI」 2001.10より)。そして、スーパー・ジェミニのためのいくつかのアイデアとコンセプトである、117クーペからのフィードバックの意もこめて、むしろ量産化のできる4〜5シーターのスポーツ・ワゴン的性格の位置づけ(八、「ラピタ」2001.8)を伝えた。後は、イタル・デザインの自由な発想にまかせることになった(「NAVI」 2001.10より)。 当時のデザイン部部長の井ノ口さんによれば、

 「ピアッツァ」の場合は、いすゞの企画で具体的構想とイメージの設定、デザインスタディを終えたうえでジウジアーロの力を引き出す醸造方式の提携と言えるでしょう。いすゞは、開発研究の手段にジウジアーロを起用し、量産販売車を開発した。

 「ピアッツァ」の場合は、いすゞ社内で当初コンセプトとしてSSW (Super Sports Wagon, Sporty Spacious Wagon等)を企画し、外形は大きくすることなく居住性のよいインテリアを有する新しいタイプの車、走る愉しさと快適な空間、多用途志向できるフィーリングを持つクーペ、当然「117クーペ」をさらに超える次の時代を先取りする車を狙ったのです。形づくりに入る前に相当リアルな内容を、仮説として計画したうえで、ジウジアーロとのコンタクトを始めました。


 彼の才能をいすゞの目的に合わせたうえで引き出し、成果を上げることこそ狙いだった。

            「いすゞ自動車「ピアッツァ」のスタイルがいすゞデザインの証」 宣伝会議別冊 (1982.12)

 

  **************

  SSWは、その後大型車との混同を避けるため、ニュー・スポーツ・クーペ(New Sports Coupe)を意味するNSCに変更された(八)。

  「走る性能はスポーツ・カーでありながら、スペース的に十分な空間を持つ、走ることが快適であるよう、トータルな性能を持つ」(八)

 NSCに設定された基本的開発コンセプトは、以下の5つである(八)。

  1. 高性能、高品質 
  2. スタイ ル、技術面の先進性
  3. 社会との調和、時代の要請
  4. 日常の生活における高い実用性
  5. 磨かれたセンスと洗練された味わい 


 秋(註:実際は夏のようである)にはこれらの基本的企画が固まり、いすゞの首脳陣が生産に向けてGoサインを出し(十二)、ジウジアーロにデザインが発注された(十三)。いすゞ側がジウジアーロに課したデザイン・テーマは、

  1. 先進的デザインによりロングライフなスタイリング
  2. 快適な居住空間と優れた空力的造詣の兼備
  3. インテリア・デザインにおいても差別性のあるハイテックなもの
  4. ひろがりのある価値観をもたせる、こと等であった(十-3)。
    * クォーター・カバード・ヘッドランプのアイデアは当初からいすゞ独自のもので、エアロダイナミックスを強調し、鋭い表情のフロントマスクをを生み出す強烈な狙いがあった(十四)。 

 年末に(註:実際は夏)、ジウジアーロからのアイデア・レンダリングが送られてきた(三)。送られてきた最初のレンダリングは、当時ジウジアーロが主題としていた一連の「アッソ・シリーズ」のスケッチであった(二)。それは、彼が永年追求してきたデザイン・テーマ「快適な居住空間と優れた空力的造詣の融合」を試みたもの(十-4)で、鋭いウエッジ・シェイプとフラッシュ・サ―フェースのボディ外皮を持っていた(八)。最終レンダリングの決定は10月(「NAVI」 2001.10より))。

 このレンダリングには、「十分な居住空間を持った2ドア・ハッチバック車で、先端的なイメージを持つ新しいジャンルのスペシャリティカー」という商品イメージが示されている。そのイメージを成り立たせる重要なスタイルのポイント、たとえば、フラッシュサーフェース、豊かな曲面、などが表現されている。このレンダリングを採用することによって、プロジェクトの目標が形になった(「自動車と設計技術」)。

 レンダリングへの返礼するように、いすゞはツインカムを搭載し、リヤにディスク・ブレーキを備えた発売間近の最新型のジェミニZZをシャシーとしてトリノのイタル・デザインに送った(三、註:実際は初秋には空輸された)(追記:「ドライバー」誌1979.6.20号によれば、ジェミニのシャシー1台分をチューニングしてイタリアへ送り込んだ、とある。読みようによっては発売間近のジェミニZZではなく、アッソ独自用にチューニングしたものと読めなくもない)。イタル・デザインでは、図面によるプロポーザルが全面的に承認されたため木型製作がスピーディーに進行していた。そして、この木型を基に板金によりスティール・パネルが製造されていた(二)。 
 ところで当初、いすゞはこのNSCを売れても売れなくてもよい単なるジェミニの販売促進のイメージリーダーとして考えていた(12)(追記:『光芒 : いすゞ乗用車開発の軌跡』には、スーパーカーブームは沈静化してたが、やはりアイキャッチの車が店頭に欲しい。ジェミニのシャシを基にした少量生産の超スポーツカーをイタルで作ってもらい、大都市の店頭に配置してはどうかと考えた、とある)。また、イタル・デザインでは月に5〜10台をハンドメイクし、かなり高価に販売する計画を持っていた。しかし、デザインの進行につれていすゞ社内でも次第に117クーペの後継車としての評価が高まっていった(一)。

 

 

1979年 アッソ誕生
  

 1月、ランニング・プロトタイプ製作開始。ジェミニのシャシー構造上の改変は既に終了しており(三)、シャシーの上に流麗なボディを構築するのが始まった(二)。完成目標は、ジュネーブ・ショーが始まる3月、開幕まで後2ヶ月しかない。製作を行ったのは、技術担当重役のアルド・マントヴァー二氏率いる技術チームで、木型に合わせてスチール・パネルから微妙な局面を叩き出し、治具を組んで溶接し、組み立ててゆくというイタリアのカロッツェリア独特の作業で進められ、さらに塗装、そして総革 の内装、未来志向のメーター・クラスター等の艤装が行われた(三)。3月、完成した「アッソ・ディ・フィオーリ」がジュネーブ・ショーのイタル・デザインのスタンドに運びこまれたのは、プレス・デイ当日だった(三)。突貫工事でもあったせいで、未来志向の計器やスイッチはダミーである(三)。公開に当たっては、イタル・デザインといすゞ自動車の名が併記されていた(三)。公開されると、このアッソは評判を呼び、大きな人垣を作った(八)。 もしかすると一番驚いたのは依頼主のいすゞ自動車自身かもしれない。フラッシュサーフェイスの結果として、空力的に優れているのは分かるが、「予想以上に広い居住空間」に関係者は驚かされた、と言う(「ドライバー」1979.6.20)。

 

イタル・デザインが配布したカタログ


  「現在のスタイリングを大幅に変更することなく、このクルマを量産に移行することは可能だろう」、これは製作担当マントヴァーニ氏の、いすゞとイタル・デザインが発表を行ったオープニング・デイでの発言である(二)。いすゞとイタルデザインの幹部が顔を揃えた記者会見では市販化についての質問が集中した(二)。イタル・デザインはアッソを、コンセプト・カーとしてではなく、実際の市販を前提としたものとして考えており、日本の大衆とマーケットのためにデザイン、つまり日本人向けの体型にあわせ(二)、各所に技術革新を取り入れているものの、極めて具現性の高いデザインを提案していた(九‐4)。この効果は絶大で、ジュネーブ・ショーに集まった記者達は、いすゞが当然生産に移行するものと思いこんで(九-4)しまった。しかし、いすゞはこの件に関してノー・コメントを通した(二)。この時点での他メーカ―のエンジニア達の感想は、ウインドシールド角度やフロントエンド、モダーンなダッシュボードなど、プロトタイプのデザインをそのまま生産に移行するのは大きな困難が予想され、「かりに生産されてもその魅力は半減するだろう」(十一)と悲観的なものだった(追記:「ドライバー」1979.6.20では、国内販売を考えた場合のネックとして、発光ダイオードのメーター類、本革シートのコスト、大きく開くボンネットフード、リヤゲート後端の出っ張り等を挙げている)。また、いすゞが過去10年間一度も完全な形で乗用車を開発してこなかった唯一のメーカーであったことも生産型の出来映えが危惧された(十一)。 
 

 しかし、いすゞ内部ではジュネーブ・ショーでの高い評判により量産化が決定していた(十一)。ショーへの出品と同時進行でプロトタイプの見直しが始まっており( 十三)、いすゞの技術部とデザイン部のスタッフ数名がイタル・デザイン本社で共同作業を進められていた(十一)。アッソがもともと日本人の体格に合わせて設計されたクルマではあったが、対米輸出も念頭におくとそのまま生産するわけにはいかない(十二)。いすゞ呼称はNSCから、720(開発番号・コード)に変更された(3月か、5月か、それ以降)。

 プロトタイプから生産車に至る生産設計やインテリア設計は、いすゞ設計陣が中心になって進められた(八)。

 ■ SSW720(NSC720)の基本方針や開発コンセプト ■


1.  開発の狙い 

  1. 持つことに誇りを、使うことに満足感を覚える高品質でスタイルの良いロングライフなスペシャルティ・カーであること
  2. 一家4人で週末旅行が可能な実用性、 居住性を有すること
  3. 先進技術を積極的に取り入れ、実用燃費も高いこと
  4. 対米輸出を含む海外市場に対し、商品力、安全性等に十分なポテンシャルを有すること
  5. いすゞ既存の装置、部品及び組立工程をできるだけ活用し、新規設備投資を極力少なくすること
  6. 最短期間で開発すること、の6つである(十-3)

    6は、ショーで他社に手の内を見せたからには、一日も早く商品化せねばならなかったのが、いすず首脳部の意向であった(十一)。他誌(十三)で紹介された開発の狙いは、I. 持つことに誇りを、扱うことに満足感を、II. 飽きのこないスタイリングと先進性を持ったメカニズム、III. 走りと燃費の両立、IV. スーパースポーツワゴンの機能性、V. 快適な乗りごこちと操作性の向上、VI. 海外市場に対応できる安全性と商品性、VII. 短期間の開発、VIII. 現有設備の使用や部品の共有化による原価低減、の8つである。 


2. 技術的コンセプト


 I.流麗なスタイル、II. 未来志向のインテリア、III. すぐれたパフォーマンス、 IV. エレクトロニクスの活用、V. 高いユーティリティこれらの事項を安全、公害、省エネルギーのターゲットと共に達成させ、しかも短時間に開発する(十-2)ことが目標となった。

 

3. デザイン作業 


 量産化へのデザイン作業は、工業デザイン部デザイナーをイタルデザイン社へ派遣してのインテリアデザインの共同作業、いすゞ内におけるジウジアーロとのデザイン会議等により効率的なデザインの推進を図った(十‐4)。居住性の改善、空力面での洗練・サービス性と生産性の改善等、ジウジアーロ自らが中心となって、オリジナル・デザイン(アッソ)の持ち味を最大限に活かしつつ量産化へのリファインを行った。内・外装は、「単目的なスペシャルティを超えた多極なユーザーを目標」(九-3)に、新しいコンセプトである「多極のクルマ」 (Multipolar Car)(八)を表現すべく努力された。 多極なクルマ(十三)とは、次のようにと換言することができる。

使う人によっては、スーパーカーにも、 2ドア・ファミリー・クーペになるような、多様な価値観をもったクルマ

  企画に従って、レイアウトの検討が行われ、イメージを基に実際の寸法を当てはめながら、スタイルの検討が行われる。この段階で原寸大の絵が描かれることも多い。平面上で原寸で検討された図面を基に、クレイモデルによる立体としての検討が行われる。さらに、空力試験もこの時期に開始して、車として実現するための必要条件消化しながら、イメージを立体として造形してゆく。これと並行して室内モックアップが作成され、レイアウトの確認・修正、室内デザインの検討が行われる(『自動車と設計技術』)。空力実験は後述。

 イタル・デザインとの量産化へのデザイン作業では、いすゞ側の技術データ、ディメンションに従ってマスターモデル(石膏モデル)が作られ(フェンダーミラーを持ちアッソと異なる印象)(十一)、またいすゞ社内でも1/1クレーモデルの再現が行われた(十-4)。5月、わずか2ヶ月と短い時間の中で量産プロトタイプ(1号?)が完成した(十三)。 量産プロトタイプ → 量産スタイルにまとめられたモデル

   この間、いすゞとジウジアーロとの間では、細かなラインの処理に至るまで、徹底的な検討が重ねられ、変更が加えられた(最終的に、アッソとピアッツァは、同じボディ・パネルが1枚としてないほどに変わっている)(十四)。[補足: アッソと量産プロトタイプはサイズが違う。また、ジウジアーロとのディスカッションを重ね、リ・デザインが終了したのは5月下旬だった(「日刊自動車新聞」 1981.6.3)] 。 

  居住性、空力特性、生産の面で見直された結果、居住性においては、117クーペよりも短いホイールベース、低い車高にも拘らず117クーペ以上の居住スペースを確保することになった(十-3)。量産プロトを作る過程には、イタルデザインとの妥協や衝突もあったようで、リヤ・セクションのトランクルームの拡大、リヤ・クラッシュ対策のため、いすゞ側はオ―バーハング延長の提案をしたが、ジウジアーロは断固として「No!」だったという。また、イタル・デザイン側からは、より広いトレッドと、より広いタイヤを望むも叶えられなかった(十四)。 

■ スタイル決定 

 5月下旬、量産スタイルにまとめられたモデルを囲んでスタイル決定プレゼンテーションが行われた。『自動車と設計技術』の28ページには、当時の岡本社長ら経営者に対するプレゼン風景の写真がある。そして、経営者から「ゴー」のサインが下された。

 「最初にプロトタイプが出来上がった時の技術者の反応はものすごいもので、今までレンダリングとレイアウトの段階でバラバラに出ていた意見がその瞬間一つに集約され、「よし、これでいこうではないか」と。これは開発だけでなく、販売、トップあるいは工場の生産技術部門を総括している人々もである」(「日刊自動車新聞」 (1981.6.3)]。

 スタイル決定により、開発は設計段階に入った。人員が増強され、量産化のための開発設計が各装置ごとに展開される。

 ジウジアーロといすゞが検討を重ねる中、朗報がもたらされた。ジュネーブ・ショー後の5月に始まったローマの自動車ショーに展示されたアッソが、再度大きな人垣を作り、コンクール・ド・エレガンスで、グッド・デザインに対する「ぺガソ賞」を獲得したのである。これは117クーペも1966年に受賞している(八)。<こうして、ピアッツァの前途は揚々たるものとなった>。 

 インテリアは、ジウジアーロの「好み」を活かした生地/色をアレンジしつつ、独特の格調でまとめあげられた(八)。また、後にサテライト・スイッチと呼ばれるメーター・クラスターはジウジアーロの指導を受けながら(十四)、いすゞの工業デザイン部 (八)の若手デザイナーがまとめた(十四)。後にピアッツァのデジタルメーターのエンジ ン回転計(タコメーター)が昼間見難いという欠点が指摘されているが、ジウジアーロによれば、本来もっと見易かったものを、日本の運輸省の意見、一度に2つのディスプレイが同じ強さで表示されてはならない、から速度計の方が表示を強くすることになった(六)。ダッシュ・パネルの表面の皺は、アッソのルーズな革張りのイメージを受け継ぎながらも、日本人の感覚に合わせることを狙って作り上げられた(十四)。デザイン上での大きな違い、ピアッツァのフェンダ―・ミラーもジウジアーロ・デザインである(十四)(補足:「CARトップ」1981年8月号によれば、いすゞ自動車はドアミラー装着について運輸省にかけあったが、運輸省側がドアミラーの良し悪しの基準ができていないことから慎重な態度を取ったため、採用はされなかった、とある)。 

■ 設計段階以降

 自動車の開発ステップは次の段階からなる(十‐B)。

            スタイリング

    企画 <           > 設計 − 試作 − 実験 − 生産準備 − 生産 − 販売

            先行開発   

 通常4年かかる開発期間の短縮のため、いすゞ社内では色々な開発手法が試行錯誤された。開発責任者を主座とするワーキンググループによる品質、日程、採算性についての総合的検討や各種分科会の設置等。また、開発のスピードアップの施策として、

  • I. 先行プロト車20数台による主要性能の早期把握 [補足:ピアッツァのスタイルとは全然異なる量産車を30台近く使い、それぞれに操安性のプロト、エレクトロニクスのプロトというように別の姿の車を創って、それぞれの評価を早期に行った。そして、その集約したものをスタイルとドッキングさせる開発方法が取られた(「日刊自動車新聞」 1981.6.3)]。補足:プリプロトタイプ試験。ピアッツァでは、117クーペ、ジェミニを中心に、約20台の改造車が作られた(『自動車と設計技術』)
  • II. 静及び動的構造解析の拡大利用
  • III. 早期の応力テスト、限界強度テストによる重要問題摘出のスピードアップ
  • IV. 量産工程に近い試作工程採用による量産時の問題点摘出の容易化
  • V. 一次研究試作車の工場部門での組立、評価による早期フィードバック
  • VI. イタル・デザイン車及び協力メーカーの大幅な協力体制の強化、が挙げられる(十-3)

    こうしたプロセスの中で、IとII、更に試作段階からの生産部門の参画や全社的なプロジェクトチームの編成が特に効果があったと報告されている(十-2)。 

 7月末日、いすゞ自動車が来春にもジェミニをベースとし、イタルデザインによるスペシャリティーカーを発売する方針を固めた、と報道された(「日経産業新聞」 1979.7.31)ことにより、アッソが量産化されることが周知の事実となった。

■ 試作車試験 

 『自動車と設計技術』によれば、試作車は普通100台前後用意され、1000項目を超える試験が行われる。延べ走行距離は200万kmにも及ぶ。 

 <構造解析、シャシー、車体設計、艤装設計、電装部品等の準備、性能試験とかを経て生産型プロトタイプができあがると思うのだが、詳しくは、「いすゞ技報」 No. 66 (1981)を読んで下さい>。性能試験でよく出る風洞実験であるが、空力特性は、Cd=0.36、Dlf=0.30となっている(アッソはトリノ工科大学風洞実験でCd=0.41。また、クレイモデルでは、リヤ・スポイラーの追加でCd=0.30を切るデータも記録している(十四)。<恐らく、1979年末には、製品企画、デザイン、設計、試作、実験・評価といった開発の段階は終了>、つまり、50台におよぶ量産プロトタイプを経て最終的な生産型プロトタイプにこぎつけた(九-4))<のは1979年末か、1980年初めであろう>。生産プロトタイプはいすゞとイタル・デザインそれぞれで作られており、いすゞ側の生産プロトタイプは4灯式ヘッドランプで、フロントバンパーのナンバー部分にはNSCと入っていた(八)。

 生産型プロトタイプ(生産試作車)を初めて見たGMの幹部デザイナーは、「これが車というものだ!」と眼を輝かせたという(十一)。

 11月1日から12日までの第23回東京モーターショーで、「ISUZU X」と名を変えて、その優雅な姿を始めて日本のファンに披露した。ここでも、「いつ生産されるのか」という質問が相次いだが、いすゞ側のコメントは「反響を見て生産化を検討したい」というものだった(五)。<註:東京モーターショーでのISUZU Xとジュネーブショーのアッソとは、装備で少々異なる点があるようです。まず、ステアリ ング・ホイール(ハンドル)がA字型スポークから、3本スポーク(後に最終型XSとXS/Gに採用されたものに酷似)>。また、アルミホイールとタイヤが、日本メルバー製の5 2/1JホイールとクレバーV12SGTSから、四角い穴が多いわずかに異なるホイールとYOKOHAMA ADVAN HF-R, 185/70HR13になっていた(五)。

 

  
1980年 NSC720
  

 

 通常7〜8ヶ月かかるプレスの金型をわずか5ヶ月で完成させた(十三)、という逸話が残る。*『自動車と設計技術』によれば、大物のプレス成形型、樹脂成形型は生産試作の約6〜10か月前に手配が開始される、ことから、1980年末の藤沢工場のテストを生産車試作実験とすると、金型は1979年末か、1980年始めに完成していたのではないだろうか。

 <ボディ、プレス、化成、塗装、車両・組立生産準備に入った?> 


 5月に、いすゞが新型自動車「アッソ」(この時点ではピアッツァというネーミングは決まっていたかは不明)の審査申請の方針を固めたと報道されている(四)。<恐らく、生産準備の段階は終わり生産段階に入ったか、もしくは、生産準備終盤にさしかかっていたのではなかろうか>。 [補足: 試作段階にはre di Fioriというネーミングも候補に存在したという(情報源)] 
 

 11月21日から27日の大阪国際オートショーに、アッソが「いすゞX」として再度出品され、入場者に鮮烈な印象を与え、話題の中心となった(十-4)。昨年の東京モータ―ショーの出品時には曖昧だった生産化の話しも、この頃になると、「なんとか量産化のめどがつきました」に変わった。実はその頃、運輸省による型式認定の審査が進行中だった(九-2)。 ? 
 

 年末には、藤沢工場のテストコースで、2リットルDOHC搭載車が藤沢工場のテストコースで実測195Km/hを簡単にマークしたと報道されている(五)。  *これを生産試作実験とすると、『自動車と設計技術』によれば、生産試作の目的は、生産設備の稼動状態のチェックと、生産設備によって作られた車の品質や性能のチェックを行うこと。生産試作は、中程度のモデルチェンジで普通2回ほど実施される。

 

 

   
1981年 ピアッツァ誕生
   

 1月末に、「いすゞ・ピアッツァ」のネーミングで、型式認定公示された(九-2)。

  「ピアッツァ」 Piazza とはイタリア語で「広場」を意味する。ヨーロッパの長い歴史の中で、いくつかの文化が出会い、融合し、新たな文化が生れたのも人々が集まり、くつろぐ広場が重要な役割を果たした。80年代の車社会を先導する広場となるよう命名された。ピアッツァのマークも石畳のパターンを表現している(「日刊自動車新聞」 1981.5.14)。

 ピアッツァの命名者は、詩人の高橋睦郎氏である(「アエラ」1990年01月30日号)。ピアッツァの他に挙がっていたネーミングの候補は、ALBA(夜明け)とPATIO(敷石のある中庭)である(「ル・ボラン」1981年2月号)。(補足:既に三菱自動車に「アッソ」と「フィオーレ」が車名登録されていた)。

 3月5日から15日の第51回ジュネーブ・ショーに「ピアッツァ」は「いすゞX」として出品された。出品された「いすゞX」は生産型プロトタイプ(生産試作)で、いすゞは展示用に2台を輸送し、スペースの都合でいすゞとイタル・デザインの各ブースに一台ずつ展示された(ドアミラー車です)。「いすゞX」は前回と異なった意味で大きな注目を浴びていた。それはわずか2ヶ月の開発期間と自動車摩擦の、中ジウジアーロといすゞ(日本車メーカー)のパートナーシップによるものだった。ポルシェのトップ・マネジメントなども半分本気、半分冗談ともつかぬ調子で、「ぜひ、ドイツで売らしてくれ」、また、ジウジアーロと親密な関係にあるアウディなども、「ひどいじゃないか、こんないいモデルを」とうらみがましい声をかけた(七)という。 


 ピアッツァは、ジウジアーロにとって、合理性と快適な居住性を追求した80年代の第一の回答であり、量産化第一号となった(12)。彼がピアッツァにおいて追求した点はIntegrale、つまりドア、ハッチ、ボンネットなど開く部分とボディ本体の一体性である(六)。具体的にはミニマム・オープニングとフラッシュ・サーフェース処理の2点で、彼は特許を取得している(十二)。そして、またいすゞの技術陣も、スタイリング だけでなく、エンジニアリングの面でも先進性を与えるべく全力を傾けた。ピアッツァに関する特許・実用新案は70項目に及ぶ(十四)という。ここに、「いすゞの誇りとなるような乗用車」(十三)であり、ジウジアーロが「美しい走る宝石」と呼ぶ(十四)、ピアッツァが完成したのである。そして、いよいよ−。 


 アッソとピアッツァの外観上の違いは数多い。(但し、前にも書いたように、同じボディ・パネルが一枚としてないほどに変わっている(十四)。外観上の違いは、ピアッツァの総合サイトであるJR East Japan(情報源)でも採り上げられているので、ここでは省略したい。 


 誕生したピアッツァは、ジウジアーロの意図を活かしながら、わずか2年足らずの期間で開発された。ピアッツァには、G200型DOHCエンジン(グロス135馬力/6,200rpm)とSOHC(グロス120馬力/5,800rpm)が塔載され、DOHCエンジンには、世界初のマイクロコンピュータ制御I-TECが採用された。(補足:このI-TECは、いすゞと日立製作所の共同開発によるものだが、後に、日産自動車と日立が1979年に共同開発した燃料制御システムECCSの技術が一部使われていたが発覚、日立は日産に技術料を払うことで和解するも、日立からいすゞへの納入価格はこの技術料が上乗せされることになった 「日経産業新聞」1981.7.6)。 


 ピアッツァで採用された新規開発装置( 十-3)を挙げていくと、エクステリア: ポリカーボネート樹脂パンバー、ハイドロエラスティックエンジンマウント、完全車速感応パワーアシスト付ラックピニオンステアリング、VGRラック ピニオンステアリング、電動式ヘッドランプカバー、フラッシュサーフェスボディ、マイコン制御DOHCエンジン(世界初)、ワンアームワイパーインテリア: フェザータッチ式エアコンコントロール、マルチドライブモニタ、エレクトロニクスメータ、サテライトスイッチ、メモリ付チルトステアリング(世界初)、マルチコントロールシート(世界初)である。 


 3月、いすゞはアイシン・ワーナーから4速ATを購入を始めた。アイシンがトヨタグループ以外に4速ATを販売するのは初めてのことであった(「日経産業新聞」 1981.3.19)。ピアッツァの生産は4月中旬頃から始まった(「いすゞ技報」 No. 76 (1997))。雑誌「ル・ボラン」の1981年6月号には、「さようなら117クーペ」の特集が組まれているが、その特集の写真の中にピアッツァの第一号車を確認できる。写真説明を抜き出すと、

 117シリーズが、14年の寿命をとじ、新しくピアッツァの時代が始まった。117シリーズの生産累計は、86,192台。うち、現在でも8万台以上、実に98%強の生存率を誇る堅牢車でもある。写真は、藤沢工場における記念すべきセレモニー。117の最終車に立つのは、小西常一専務取締役、ピアッツァの第1号車の前に立つのは清水洋三副社長。


  5月13日 いすゞ・ピアッツァ正式発表。6月6日に発売開始。この項目を締めくくるのに相応しい言葉を紹介して終わりにしたい。

 

 1981年5月13日はいすゞにとっても クルマ好きのわれわれにとっても忘れ得ぬ日となった。

 1台の素晴らしく新しいクルマが誕生したからだ。その名はいすゞ・ピアッツァ。

 いすゞのコンセプト、ジウジアーロのスタイリングと、

 そしていすゞのエンジニアリングとがひとつの素晴らしい形になったのだ − 

 いま12年6ヶ月を経た117クーペは 尚十分に新しい。

 それ故 ピアッツァの10年後を想ってわれわれはその素晴らしさを感知したい。

 今 生まれたピアッツァは21世紀を目指したかのように素晴らしく新しい −

『ISUZU ピアッツァ 117クーペ/ベレット』 ネコ・パブリッシング, (1981, 5)  

 

History 2に続く

 

その後のアッソ・ディ・フィオーリ
 
 ネットで検索してみると、その後の足取りが分かりました。大阪国際オートショーに出品された後は、いすゞ自動車の藤沢工場に保管されていたようである。しかし、放置に近い状態だったようで、メーターパネルを始めとするパーツは紛失し、錆で穴が空いてしまったところもあったようだ(情報源)。2000年に、いすゞの有志社員が集まりレストアを開始、メーター・パネルは原型が紛失し、当時の写真を見て木型から作り直した。2001年7月8日(日)に岡崎中央運動公園で行われた「いすゞオーナーズミーティング」で披露された(情報源 情報源 情報源)。2002年6月2日からは、トヨタ博物館の新館1階エントランス横に特別展示された(情報源)。その後、いすゞ自動車の経営状態悪化の中で、トヨタ自動車博物館にもらわれていったというようなことを噂で聞いたが、常設展示はされていない(収納庫にあるらしい、情報源)。

 

 

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