1月、ランニング・プロトタイプ製作開始。ジェミニのシャシー構造上の改変は既に終了しており(三)、シャシーの上に流麗なボディを構築するのが始まった(二)。完成目標は、ジュネーブ・ショーが始まる3月、開幕まで後2ヶ月しかない。製作を行ったのは、技術担当重役のアルド・マントヴァー二氏率いる技術チームで、木型に合わせてスチール・パネルから微妙な局面を叩き出し、治具を組んで溶接し、組み立ててゆくというイタリアのカロッツェリア独特の作業で進められ、さらに塗装、そして総革 の内装、未来志向のメーター・クラスター等の艤装が行われた(三)。3月、完成した「アッソ・ディ・フィオーリ」がジュネーブ・ショーのイタル・デザインのスタンドに運びこまれたのは、プレス・デイ当日だった(三)。突貫工事でもあったせいで、未来志向の計器やスイッチはダミーである(三)。公開に当たっては、イタル・デザインといすゞ自動車の名が併記されていた(三)。公開されると、このアッソは評判を呼び、大きな人垣を作った(八)。 もしかすると一番驚いたのは依頼主のいすゞ自動車自身かもしれない。フラッシュサーフェイスの結果として、空力的に優れているのは分かるが、「予想以上に広い居住空間」に関係者は驚かされた、と言う(「ドライバー」1979.6.20)。
「現在のスタイリングを大幅に変更することなく、このクルマを量産に移行することは可能だろう」、これは製作担当マントヴァーニ氏の、いすゞとイタル・デザインが発表を行ったオープニング・デイでの発言である(二)。いすゞとイタルデザインの幹部が顔を揃えた記者会見では市販化についての質問が集中した(二)。イタル・デザインはアッソを、コンセプト・カーとしてではなく、実際の市販を前提としたものとして考えており、日本の大衆とマーケットのためにデザイン、つまり日本人向けの体型にあわせ(二)、各所に技術革新を取り入れているものの、極めて具現性の高いデザインを提案していた(九‐4)。この効果は絶大で、ジュネーブ・ショーに集まった記者達は、いすゞが当然生産に移行するものと思いこんで(九-4)しまった。しかし、いすゞはこの件に関してノー・コメントを通した(二)。この時点での他メーカ―のエンジニア達の感想は、ウインドシールド角度やフロントエンド、モダーンなダッシュボードなど、プロトタイプのデザインをそのまま生産に移行するのは大きな困難が予想され、「かりに生産されてもその魅力は半減するだろう」(十一)と悲観的なものだった(追記:「ドライバー」1979.6.20では、国内販売を考えた場合のネックとして、発光ダイオードのメーター類、本革シートのコスト、大きく開くボンネットフード、リヤゲート後端の出っ張り等を挙げている)。また、いすゞが過去10年間一度も完全な形で乗用車を開発してこなかった唯一のメーカーであったことも生産型の出来映えが危惧された(十一)。
しかし、いすゞ内部ではジュネーブ・ショーでの高い評判により量産化が決定していた(十一)。ショーへの出品と同時進行でプロトタイプの見直しが始まっており( 十三)、いすゞの技術部とデザイン部のスタッフ数名がイタル・デザイン本社で共同作業を進められていた(十一)。アッソがもともと日本人の体格に合わせて設計されたクルマではあったが、対米輸出も念頭におくとそのまま生産するわけにはいかない(十二)。いすゞ呼称はNSCから、720(開発番号・コード)に変更された(3月か、5月か、それ以降)。
プロトタイプから生産車に至る生産設計やインテリア設計は、いすゞ設計陣が中心になって進められた(八)。
■ SSW720(NSC720)の基本方針や開発コンセプト ■
1. 開発の狙い
- 持つことに誇りを、使うことに満足感を覚える高品質でスタイルの良いロングライフなスペシャルティ・カーであること
- 一家4人で週末旅行が可能な実用性、
居住性を有すること
- 先進技術を積極的に取り入れ、実用燃費も高いこと
- 対米輸出を含む海外市場に対し、商品力、安全性等に十分なポテンシャルを有すること
- いすゞ既存の装置、部品及び組立工程をできるだけ活用し、新規設備投資を極力少なくすること
- 最短期間で開発すること、の6つである(十-3)
6は、ショーで他社に手の内を見せたからには、一日も早く商品化せねばならなかったのが、いすず首脳部の意向であった(十一)。他誌(十三)で紹介された開発の狙いは、I. 持つことに誇りを、扱うことに満足感を、II. 飽きのこないスタイリングと先進性を持ったメカニズム、III. 走りと燃費の両立、IV. スーパースポーツワゴンの機能性、V. 快適な乗りごこちと操作性の向上、VI. 海外市場に対応できる安全性と商品性、VII. 短期間の開発、VIII. 現有設備の使用や部品の共有化による原価低減、の8つである。
2. 技術的コンセプト
I.流麗なスタイル、II. 未来志向のインテリア、III. すぐれたパフォーマンス、 IV. エレクトロニクスの活用、V. 高いユーティリティこれらの事項を安全、公害、省エネルギーのターゲットと共に達成させ、しかも短時間に開発する(十-2)ことが目標となった。
3. デザイン作業
量産化へのデザイン作業は、工業デザイン部デザイナーをイタルデザイン社へ派遣してのインテリアデザインの共同作業、いすゞ内におけるジウジアーロとのデザイン会議等により効率的なデザインの推進を図った(十‐4)。居住性の改善、空力面での洗練・サービス性と生産性の改善等、ジウジアーロ自らが中心となって、オリジナル・デザイン(アッソ)の持ち味を最大限に活かしつつ量産化へのリファインを行った。内・外装は、「単目的なスペシャルティを超えた多極なユーザーを目標」(九-3)に、新しいコンセプトである「多極のクルマ」 (Multipolar Car)(八)を表現すべく努力された。 多極なクルマ(十三)とは、次のようにと換言することができる。
「使う人によっては、スーパーカーにも、 2ドア・ファミリー・クーペになるような、多様な価値観をもったクルマ」 |
企画に従って、レイアウトの検討が行われ、イメージを基に実際の寸法を当てはめながら、スタイルの検討が行われる。この段階で原寸大の絵が描かれることも多い。平面上で原寸で検討された図面を基に、クレイモデルによる立体としての検討が行われる。さらに、空力試験もこの時期に開始して、車として実現するための必要条件消化しながら、イメージを立体として造形してゆく。これと並行して室内モックアップが作成され、レイアウトの確認・修正、室内デザインの検討が行われる(『自動車と設計技術』)。空力実験は後述。
イタル・デザインとの量産化へのデザイン作業では、いすゞ側の技術データ、ディメンションに従ってマスターモデル(石膏モデル)が作られ(フェンダーミラーを持ちアッソと異なる印象)(十一)、またいすゞ社内でも1/1クレーモデルの再現が行われた(十-4)。5月、わずか2ヶ月と短い時間の中で量産プロトタイプ(1号?)が完成した(十三)。 量産プロトタイプ → 量産スタイルにまとめられたモデル
この間、いすゞとジウジアーロとの間では、細かなラインの処理に至るまで、徹底的な検討が重ねられ、変更が加えられた(最終的に、アッソとピアッツァは、同じボディ・パネルが1枚としてないほどに変わっている)(十四)。[補足: アッソと量産プロトタイプはサイズが違う。また、ジウジアーロとのディスカッションを重ね、リ・デザインが終了したのは5月下旬だった(「日刊自動車新聞」 1981.6.3)]
。
居住性、空力特性、生産の面で見直された結果、居住性においては、117クーペよりも短いホイールベース、低い車高にも拘らず117クーペ以上の居住スペースを確保することになった(十-3)。量産プロトを作る過程には、イタルデザインとの妥協や衝突もあったようで、リヤ・セクションのトランクルームの拡大、リヤ・クラッシュ対策のため、いすゞ側はオ―バーハング延長の提案をしたが、ジウジアーロは断固として「No!」だったという。また、イタル・デザイン側からは、より広いトレッドと、より広いタイヤを望むも叶えられなかった(十四)。
■ スタイル決定
5月下旬、量産スタイルにまとめられたモデルを囲んでスタイル決定プレゼンテーションが行われた。『自動車と設計技術』の28ページには、当時の岡本社長ら経営者に対するプレゼン風景の写真がある。そして、経営者から「ゴー」のサインが下された。
「最初にプロトタイプが出来上がった時の技術者の反応はものすごいもので、今までレンダリングとレイアウトの段階でバラバラに出ていた意見がその瞬間一つに集約され、「よし、これでいこうではないか」と。これは開発だけでなく、販売、トップあるいは工場の生産技術部門を総括している人々もである」(「日刊自動車新聞」 (1981.6.3)]。
スタイル決定により、開発は設計段階に入った。人員が増強され、量産化のための開発設計が各装置ごとに展開される。
ジウジアーロといすゞが検討を重ねる中、朗報がもたらされた。ジュネーブ・ショー後の5月に始まったローマの自動車ショーに展示されたアッソが、再度大きな人垣を作り、コンクール・ド・エレガンスで、グッド・デザインに対する「ぺガソ賞」を獲得したのである。これは117クーペも1966年に受賞している(八)。<こうして、ピアッツァの前途は揚々たるものとなった>。
インテリアは、ジウジアーロの「好み」を活かした生地/色をアレンジしつつ、独特の格調でまとめあげられた(八)。また、後にサテライト・スイッチと呼ばれるメーター・クラスターはジウジアーロの指導を受けながら(十四)、いすゞの工業デザイン部 (八)の若手デザイナーがまとめた(十四)。後にピアッツァのデジタルメーターのエンジ ン回転計(タコメーター)が昼間見難いという欠点が指摘されているが、ジウジアーロによれば、本来もっと見易かったものを、日本の運輸省の意見、一度に2つのディスプレイが同じ強さで表示されてはならない、から速度計の方が表示を強くすることになった(六)。ダッシュ・パネルの表面の皺は、アッソのルーズな革張りのイメージを受け継ぎながらも、日本人の感覚に合わせることを狙って作り上げられた(十四)。デザイン上での大きな違い、ピアッツァのフェンダ―・ミラーもジウジアーロ・デザインである(十四)(補足:「CARトップ」1981年8月号によれば、いすゞ自動車はドアミラー装着について運輸省にかけあったが、運輸省側がドアミラーの良し悪しの基準ができていないことから慎重な態度を取ったため、採用はされなかった、とある)。
■ 設計段階以降
自動車の開発ステップは次の段階からなる(十‐B)。
スタイリング
企画 < > 設計 − 試作 − 実験 − 生産準備 − 生産 − 販売
先行開発
通常4年かかる開発期間の短縮のため、いすゞ社内では色々な開発手法が試行錯誤された。開発責任者を主座とするワーキンググループによる品質、日程、採算性についての総合的検討や各種分科会の設置等。また、開発のスピードアップの施策として、
- I. 先行プロト車20数台による主要性能の早期把握 [補足:ピアッツァのスタイルとは全然異なる量産車を30台近く使い、それぞれに操安性のプロト、エレクトロニクスのプロトというように別の姿の車を創って、それぞれの評価を早期に行った。そして、その集約したものをスタイルとドッキングさせる開発方法が取られた(「日刊自動車新聞」 1981.6.3)]。補足:プリプロトタイプ試験。ピアッツァでは、117クーペ、ジェミニを中心に、約20台の改造車が作られた(『自動車と設計技術』)
- II. 静及び動的構造解析の拡大利用
- III.
早期の応力テスト、限界強度テストによる重要問題摘出のスピードアップ
- IV.
量産工程に近い試作工程採用による量産時の問題点摘出の容易化
- V.
一次研究試作車の工場部門での組立、評価による早期フィードバック
- VI. イタル・デザイン車及び協力メーカーの大幅な協力体制の強化、が挙げられる(十-3)
こうしたプロセスの中で、IとII、更に試作段階からの生産部門の参画や全社的なプロジェクトチームの編成が特に効果があったと報告されている(十-2)。
7月末日、いすゞ自動車が来春にもジェミニをベースとし、イタルデザインによるスペシャリティーカーを発売する方針を固めた、と報道された(「日経産業新聞」
1979.7.31)ことにより、アッソが量産化されることが周知の事実となった。
■ 試作車試験
『自動車と設計技術』によれば、試作車は普通100台前後用意され、1000項目を超える試験が行われる。延べ走行距離は200万kmにも及ぶ。
<構造解析、シャシー、車体設計、艤装設計、電装部品等の準備、性能試験とかを経て生産型プロトタイプができあがると思うのだが、詳しくは、「いすゞ技報」 No. 66 (1981)を読んで下さい>。性能試験でよく出る風洞実験であるが、空力特性は、Cd=0.36、Dlf=0.30となっている(アッソはトリノ工科大学風洞実験でCd=0.41。また、クレイモデルでは、リヤ・スポイラーの追加でCd=0.30を切るデータも記録している(十四)。<恐らく、1979年末には、製品企画、デザイン、設計、試作、実験・評価といった開発の段階は終了>、つまり、50台におよぶ量産プロトタイプを経て最終的な生産型プロトタイプにこぎつけた(九-4))<のは1979年末か、1980年初めであろう>。生産プロトタイプはいすゞとイタル・デザインそれぞれで作られており、いすゞ側の生産プロトタイプは4灯式ヘッドランプで、フロントバンパーのナンバー部分にはNSCと入っていた(八)。
生産型プロトタイプ(生産試作車)を初めて見たGMの幹部デザイナーは、「これが車というものだ!」と眼を輝かせたという(十一)。
11月1日から12日までの第23回東京モーターショーで、「ISUZU X」と名を変えて、その優雅な姿を始めて日本のファンに披露した。ここでも、「いつ生産されるのか」という質問が相次いだが、いすゞ側のコメントは「反響を見て生産化を検討したい」というものだった(五)。<註:東京モーターショーでのISUZU Xとジュネーブショーのアッソとは、装備で少々異なる点があるようです。まず、ステアリ ング・ホイール(ハンドル)がA字型スポークから、3本スポーク(後に最終型XSとXS/Gに採用されたものに酷似)>。また、アルミホイールとタイヤが、日本メルバー製の5 2/1JホイールとクレバーV12SGTSから、四角い穴が多いわずかに異なるホイールとYOKOHAMA ADVAN HF-R, 185/70HR13になっていた(五)。
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