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History of Piazza (2)

   birth

シニア感覚 ピアッツァ誕生

 
 

 

当時の雑誌広告より


「私のデザイン理念の集大成、ISUZUピアッツァ。
−この車は、純粋に時代のイメージリーダーカーとして発想した」 
(最初期カタログ (PC-2079)  '81.5より)

  「いすゞはピアッツァに賭けている」。岡本社長(当時)の力強いあいさつの下、1981年5月13日、東京・新宿の京王プラザホテルで、いすゞ・ピアッツァは正式発表された(「いすゞピアッツァのすべて」)。デザイナーは、117クーペと同じジョルジェット・ジウジアーロである。「ピアッツァでめざしたものは、快適な居住性、すぐれた空力性、スポーティさ、そして経済性です。この4つの高度な融合こそが、80年代から90年への車であると深く確信しています」(最初期カタログPC-2079)と、彼渾身の作品である。

 発表後、各地のディーラーで特別内覧会が行われたが、その気合の入りようは、連日業界紙の「日刊自動車新聞」で伝えられている。例えば、兵庫いすゞモーターで行われた150人を集めた内覧会では、ピアッツァは「1990年のクルマ」と紹介された(「日刊自動車新聞」 1981.5.18)。また、仙台いすゞモーターは、販売力強化のため4営業所にコンパニオンを置いた(「日刊自動車新聞」 1981.5.20)。

 いすゞ自動車によるピアッツァのPRは「いささか居直った方法」で行われた。目標はトラックのいすゞのイメージから総合自動車メーカーのイメージへの脱皮である。正式発表時には、役員、宣伝広報担当者を総動員して全国八主要都市で同時発表会を行った。参考カタログの印刷部数は約百万部に達した。発表会場にデザイナー(ジウジアーロ)をイタリアから呼んだり、新進のジャズシンガー(阿川泰子)を使い、イメージソングも作られた(「日経産業新聞」 1981.9.7)。

 ピアッツァは、6月6日に販売開始された。販売の出足は好調で、6月下旬の段階で約5千台の受注した(その時点での登録台数は1,356台)。当初、DOHCエンジン塔載車見込みは60%と予想していたが、XEとXFのDOHCエンジンを搭載した高級グレードに注文が集中し、受注の約85%を占めた(東京、大阪、名古屋等の大都市部では売れ行きを伸ばしたが、九州や北海道では売れ行きが鈍かった)。このため、ユーザーの需要構造に対応した生産体制を取る事となった。販売目標台数は月販3,000台以上だが、当初目標を超えることが確実となった(「日経産業新聞」 1981.6.25)。*「いすゞ・ピアッツァのすべて」では、DOHC対SOHCの生産体制は50%50%となっていた。

■ 5月から7月までの受注状況
1981年 受注 登録 受注残
5月 1,363 158 1,205
6月 3,645 2,212 2,368
7月22日まで 1,912 903 3,377

「日刊自動車新聞」 1981.7.30

 

 こうして華々しく売り出されたピアッツァであるが、発表当初から既に不安視されていた点が幾つかある。

  @ 基本設計が古いというハンディ (サスペンションとエンジン) (「Car & Driver」 1981.8)
  A 2ボックス・ハッチバックが市場に抵抗感なく受け入れられるか (「いすゞピアッツァのすべて」)
  B トレッドの狭さ (「Car Styling」 No. 35 (Summer 1981))

 以上3つである。当時の雑誌にはこれらの問題は杞憂に終わるだろう、と断って書かれていたが、その後のピアッツァの歴史がこれらとの戦いになるとは、当時は誰も思いもよらなかった。また、現在では洒落にならない話しになるが、当時の岡本社長のインタビューに「うちは何もしゃべらないのに、新聞は何やかといすゞについて書き立てる。ところが、後で事実は新聞の書いている通りになってしまう」(「日本経済新聞」 1981.5.14朝刊)とある。いすゞやピアッツァの未来を暗示する言葉?。

 ピアッツァの展示会は人気を呼び、各地で多数の顧客を動員した。6月6〜7日の「新発売展示試乗会」では来場者43万人(契約台数は1,370台)で、都内52会場には約25,600人(契約は154台)、7月4〜5日のアンコール展示試乗会には13万人が来場したという。当時の「Car Graphic」誌1981年8月号には、「ひょっとすると、ピアッツァは当のいすゞ自身が目が回すほどのヒットになるのではないだろうか」の予想通りになるかのように思えたが、契約は200台にしかすぎなかった。そのことに対し、いすゞは、「若い年齢層の来場者が多く、来場者の多さがそのまま契約につながらなかった」と分析している(「日経産業新聞」 1981.7.9)。また、後に『いすゞ自動車50年史』では、「(来場者の多さが)必ずしも実需には結びつかなかった」と回顧されている。

 あまり関係ない話しだが、プロ野球オールスター第1戦のMVPである南海ホークスの藤原選手にはピアッツァXEが賞品として大阪球場前で贈られた(「日刊自動車新聞」 1981.8.20)。うーん、太っ腹!。

 1981年の12月になると、月産3,000台以上の販売目標を達成できないピアッツァに対し(一番売れたのは1981年6月の2,212台、後は1,000台前後、厳密に言うとこの数字は新車登録台数です)、早くも厳しい評価が突きつけられている。これは、「日経産業新聞」の1981.12.8に掲載されたものだが、その部分を抜き出してみよう。

[不調組] いすゞ自動車が主力車種「117クーペ」の後継車として発売した「ピアッツァ」は、予想外の販売不振に陥っている。販売不振の原因について、他メーカーやユーザーは「スタイルが日本人には受けない」と指摘する。ピアッツァは著名なカーデザイナー、ジウジアーロがデザインしたものだが、「曲線を基調に前方に大きく傾斜した独特のスタイルは欧州の街中でこそ似合うが、日本人にはあまりナウすぎたのかも」。日本ではピアッツァのような欧風スタイルの車を受け入れる土壌がまだ育っていないようだ。

 ピアッツァの出現は、日本人にとってはまだ早すぎたのだろうか。蛇足だが、「1981-82年第2回日本カー・オブ・ザ・イヤー」は、トヨタ・ソアラが308点を獲得し受賞したが、ピアッツァは、シティ(297点)、スカイライン(186点)に次いで第4位(153点)だった(「日経産業新聞」 1981.12.24)。その代わりでもないが、三本和彦氏が司会を務めるテレビ番組「新車情報'81」の大賞をピアッツァが得た(個人的にはこちらの方が取るの難しいのではないだろうか)。

 ピアッツァにはデビュー当時、フェンダーミラーがついていた。ドアミラーの関連記事については、当時商品第2企画部長Tさんのインタビューがある。そこには、「ドアミラーは特に我々も一生懸命運輸省にかけあいましたが運輸省としてもまだドアミラーの良し悪しの基準が出来ていないので少し待ってくれ、ということでした。でも近いうちになんとかなりそうです」 (CARトップ1981年6月号)

 

 

ピアッツァのグレード (1983年当時)

 

グレード 塔載エンジン 説明 
XE DOHC すべてを標準装備したピアッツァの中のピアッツァ
XG DOHC 熱い走りを可能にしたホットランナー・ピアッツァ
XL SOHC 装備が光るアダルトのピアッツァ
XJ-S SOHC 楽しさフルサイズ。スポーティー・マインド・ピアッツァ
BELLA SOHC エレガントにクルージング。ファッショナブル・ピアッツァ
XJ SOHC 先進の思想を結晶化。ベーシック・ピアッツァ
XN SOHC 個性で創る。プライベート・ピアッツァ

  nero

ヤナセとの提携

  

  

 1981年5月18日には、いすゞとヤナセ両者間の販売提携を結ぶことで合意したことが発表された。この提携話しは1981年1月にいすゞが持ちかけたものである(「Motor Fan」 1981.7)。これによりいすゞの販売網の弱さを、ヤナセの販売網でカバーできるというメリットがあった。また、ヤナセは販売が計画されているGMのJカーへの布石であった(「Car & Driver」 1981.8)。合意内容は、@いすゞはヤナセに、ピアッツァを供給し、ヤナセは傘下の全国販売網を通じ、国内販売を行う、A供給されるピアッツァは、ヤナセ向けの仕様、B販売目標は、当面、月間500台とし、ヤナセの販売体制拡充に応じて増加を図る、の以上3つである(「Motor Fan」 1981.7)。[補足: 「日刊自動車新聞」 1981年5月23日号には、「歓迎の声」と「当惑の顔」の両面から、提携に対するいすゞディーラーの反応を伝えている]。

 ヤナセ向けのピアッツァは、黒を基調とした内外装で、ピアッツァネロの名で6月20日から発売された。このピアッツァネロだが、6月末までに約220台を受注するという好調な滑り出しとなった(「日経産業新聞」 1981.7.4)。このことから両者の提携は強化され、10月には黒色ボディに加えて、赤、白が追加されることになった(「日経産業新聞」 1981.9.22)。Jカーについてだが、その日本版のフローリアン・アスカは1983年3月11日に発表されたが、ヤナセがアスカを扱うことはなかった。理由としては、1981年に日産がフォルクスワーゲン・サンタナを扱ったことでこじれたフォルクスワーゲンとの関係が修復されたことと、ピアッツァ・ネロの月間販売台数が100台前後と当初目標の5分の1に留まったことで見送りとなった(「日経産業新聞」 1983.12.21)

 ピアッツァネロの外見について、1984年6月のターボ車導入に伴って、XEターボとXSターボのヘッドライトが、対米輸出仕様インパルスと同じ角型4灯になった(後に、全グレード角型4灯に)。また、1988年2月のマイナーチェンジ時に、インパルス’88型のパワーバルジ付ボンネットを採用し、ヘッドライトもそれに準じたものとなった(インパルスの場合は、2.3ℓエンジンを塔載するためにパワーバルジをつけたが、ネロは現行通り2ℓエンジンである。また、ヘッドライトもインパルス同様に新規格の小型のF型ヘッドランプを採用した(「いすゞ技報」 No. 79 (1988)より)。

 「Car & Driver」誌の1981年6月号の22ページには、「ヤナセがピアッツァの販売を引き受けて、いすゞは大もうけ?」という見出しが躍っているが、ピアッツァネロは、結果的にいすゞにとっては大儲けまではならなかったにしても低迷したピアッツァの販売を助けることになった。ピアッツァネロは、ピアッツァの全販売台数の約55%を販売した(「日経産業新聞」 1988.8.29)のである。また、1989年のピアッツァの販売台数は1,302台で、半分以上の699台がネロだった(「日刊工業新聞」 1990.2.5)。そして、1981年から1993年までのネロ(JR+JT)の販売台数は11,656台だった(「中日新聞」 1996.7.2)。

 インパルス’88型についてはこちらを見よ。

 

  turbo

Gの美学 ターボ車追加

   
 

 ピアッツァの販売は年を経るごとに低迷していった。クルマの販売は常にライバル車との比較である。 1982年は年間1万台を販売したが、1983年はその半分の5千台に留まった。1982年7月の月産1,158台の販売台数を最後に1千台の大台にのることはなくなった。1981年5月の発表時点では、ピアッツァは確かにライバルを凌駕する性能を有していたかもしれないが、年月とともにその魅力は薄れていったのかもしれない。こういった場合、自動車メーカーはテコ入れとしてマイナーチェンジを行う。ユーザーはピアッツァに何を望んでいたか、ここにそのヒントになりそうな記事がある。

 「Car & Driver」誌には、オーナー自らマイカーの評価を行う「シリーズ・不満と満足」が連載されている。ピアッツァの不満と満足は1984年9月10日号に掲載されている。この記事は、ピアッツァにターボ車が追加された後に取材されたものであるが、ターボ所有者は27人中1人であり、残り26人はいわゆる前期型JR130の所有者である。総論を以下に抜き出してみよう。当時のユーザーの本音が見えてくる。

 「好き嫌いのはっきりしたクルマということで、ユーザーの評価はおおむね好評だった。さて、関心はユーザーが果たしてピアッツァのどこに価値を見出しているか、にあるが、ボディ・デザインが圧倒的だった。つまり、ジウジアーロによるスタイリングがピアッツァの最大の魅力というわけである。それ以外の点ではユーザーの評価はそれほど芳しくない。たとえば、内装の作りに対する不満が多かった。走りも不評だ。とくにDOHC車のパワー不足が指摘されている。しかし、それらの不満点がスタイリングの素晴らしさでカバーされている。つまり、ピアッツァの価値観はファッション性にあるようだ」。

  「シリーズ・不満と満足 体感報告ピアッツァの価値を分析する [オーナー27名の証言]」
                                                                  Car & Driver, 1984.9.10, p. 47-50

 いすゞの場合、1982年初夏には既に、ピアッツァの販売のテコ入れとして、G200型DOHCエンジンに代わる新型エンジンの塔載を考えていたようである(「Mr McCOY」 1984.9)。「日経産業新聞」の1983年1月1日号や日経産業新聞」の1983年2月7日号で、「販売が頭打ちのピアッツァにDOHCターボを導入検討中」だと報じられていることから、もしかすると当初は、G200型DOHCエンジンにターボを装着しようとしていたのかもしれない([追加情報] この可能性はある情報筋より完全に否定されました)。しかし、実際は1983年3月11日に発表された「フローリアン・アスカ」のターボ付エンジンを装着することになった。

 ピアッツァに追加されたターボ車XEとXS(いわゆるJR120型)は1984年6月12日に発表された。空冷インタークーラーを装着した4ZC1型エレクトロターボエンジンを搭載、既存のピアッツァに比べて最高出力を33%アップのグロス180馬力(ネット150馬力)とし各種性能を大幅に改良されていた。また、フロント、リアともディスクの外径を大きくして制動力を向上したほか、従来の車速感応式パワーステアリングに好みの操舵力を調節できる三段階切替装置を追加して操作性を高めた。XEターボにはオートクルーズコントロール、車速感知オートワイパーを標準装備。販売目標はシリーズ全体で月間800台(ヤナセのネロ含む)(「日経産業新聞」 1984.6.13)となった。その他、ドイツのシートを目標に設計されたスポーツシート、パワードアロックの標準装備、4輪ベンチレーテッドディスクブレーキ等(「クルージン」 1984.8)

 ターボ車導入の理由には、@バージョンを増やすことで客の選択の幅を広げること(客の満足を得る)、A商品として動力性能の充実(燃費の向上、サービス性、省資源)。客層の狙いは30代前半のユーザー。将来的には4バルブのDOHC車を出したい、とある(以上、「クルージン」 1984.8)。 註: この資料「クルージン」は、何でDOHCではなく、ターボだったの、という問いに対し明快に回答をくれる資料です。

 ピアッツァに塔載されたのは、アスカに搭載したターボ付きエンジンにインタークーラーを装備したもの。最大出力はアスカのターボ車を30馬力上回るグロス180馬力。ターボチャージャーは石川島播磨重工製だそうで、FF塔載のアスカ用は無理なく高速が伸びるターボ、ピアッツァ用にはより歯切れよくパワフルな印象のターボが装着された(「Motor Magazine」 1984.8, p. 166-167)。ピアッツァのターボ車は、当時のセリカXXターボや、シルビアの1.8ℓターボよりも速かった(「Car Graphic」 1984.9)。

 ターボ車開発については、ワールドフォレストプレスから出版され1年の短命に終わった雑誌「Mr McCOY」の1984年9月号には、三本和彦氏が司会する「新車情報 '84」に、当時の設計部主査を呼んでインタビューを行ったピアッツァXSターボの巻 (1984.6.30)が誌上再録されている。それによると、ターボ装着(あるいはもしかすると新型エンジン)は約2年前(1982.6付近)に決定された、という。三本氏は、ターボ装着に2年かかったことに対し、「ターボをつけようとしてから約2年。そんなにかかりますかねー」と率直な感想。設計部主査が発せられた、「この様な大出力エンジンを載みますと、サスペンションを固めなくてはいけない。ところが、乗り心地はこういった性格のクルマですから、従来よりも柔らかくしたい」という言葉に、何となくいすゞのサスペンション・チューニングへの限界が見えてくるようだ(実際に行われたチューニングは、サスペンションのロールセンターを2.6cm上げた)。三本氏の新型サスペンションの可能性への質問に対しては、「相当長い期間改良を重ねてきまして、それなりに完成度は高めているつもりでして、これだけチューニングしますと、未完成の他のサスペンションを採用するよりはメリットがありまして・・・・・・」。

 ターボ車に採用されたスポーツ・シートは、「なんとしても腰痛を防ぐシートをピアッツァに与えたい」という当時の開発主査自らの腰痛体験が基になっている。シート開発の目標は、「操縦装置の一環としてシートの持つ機能の重要性、そして疲れないシート」である。デザイン設計では、「ファッション的に人目を引くためのシートではなく、座るための本物のシート(中略)、同時に、形状がしっかりしたシートならば、メカはいらないということで調整機構の見直し」が考慮された。実際の開発では、短時間の試乗から名古屋、大阪往復といった長時間ドライブを繰り返し、多くのデータを取りながら8次試作まで行われた。試作段階から得た結論は、「固いということにこだわりたくないが、基本は正しい姿勢をとらせること」だった(「ル・ボラン」 1984.12)。

 ピアッツァ・ターボの試乗レポートで、印象深いものがあったので抜粋しておく。

 「ピアッツァの性格はハードに走りまわるよりも、ゆったりと走る方が相応しく思える。しかも、ただゆっくりととではなく、ドライバーの意志のままに加速するパワーをもったゆとりのある走り方が相応しい。この好印象は180HPエンジンと4ATによるのであり、シャーシによるところではない。つまり乗り心地と操縦性はそのシャーシの古さを正直に伝えてしまう」

 川野和哉レポート「いすゞピアッツァネロXSターボ」 Car Graphic 1984.9  p. 92-93 

 1985年5月末時点で、ターボ車発売1984年6月から1985年6月の総販売台数約4千台のうち、ターボ車の割合がシリーズ全体の6割を超えた(「日経産業新聞」1985年6月29日)。

 (追記:『光芒 : いすゞ乗用車開発の軌跡』によれば、ピアッツァ・ターボ(4気筒)は6気筒のスペシャルティー車が競合相手だったこともあり、4気筒で対抗するにはアイドリングの振動低減の上で液体封入式高減衰エンジン・マウントが有効だった、と。また、ヨーロッパへの輸出計画が起こり、ダンロップ社と西独SPライフェンウェルケ社の協力を得てアウトバーンの十万キロ走行が行われ、トラブル無しで走り切った。但し、燃費は200km/hでは3km/ℓだった・・・)。

 

 

  irm

ダンケンシェーン イルムシャー仕様追加

   

 

  イルムシャー仕様は、「いすゞ車を欧州のチューナー(市販車改良企業)にまかせてみたら・・・・・・」というアイデアから誕生した。マーケティング部の若手が中心となり、いすゞ車の商品力強化のために特別仕様モデルの開発に着手したのは1984年夏頃(1986年3月19日から一年半前)である。チューナーには、米GM系の西独オペル車を手がけるイルムシャー社が真っ先に浮かび、選ばれた(「日経産業新聞」 1986.3.19)(ISUZUDASによれば、企画担当者自身がイルムシャー社に直接コンタクトし、またイルムシャー日本代理店のブリンプ株式会社の社長さんの仲介もあり、実現したという)。

 いすゞ自動車研究開発センター(かな?)には、「車はファッション。洋服を着こなすように乗れる車をつくりたい」とチームに二十歳代のスタッフが集められた。職人芸の伝統が残る欧州に飛び、イルムシャー社の技術を採り入れ、高速安定性に優れた欧州スタイルの「固い走り」を実現した。シートも西独のレカロ社に発注した。しかし、「ただ若いというだけでは売れる車はつくれない」ことから、独自の販売戦略が練られ、生産量を抑え、希少価値を主張した。一方でラジオなどをオプションとして本体価格を抑えることでヤングユーザーが買いやすくした(「日経産業新聞」 1987.5.13)。この開発部隊の活動は「KK(起死回生)プロジェクト」と呼ばれた(「ニューモデルマガジンX] No. 10 (1988.1))

 従来の足に対する変更点は、いすゞ研究実験部主査によれば、「全体にバネは、従来のいすゞのスポーツサスより、軟らかくなっているんです。スタビライザーもなんと、細いものが用いられている。ロールは、どちらかといえば積極的にさせる方向にある。そして、大きく傾いた時のプログレッシブコイルの固いセッティング。それにガス封入式ショックのハードさの強調。結局、1輪1輪の接地意欲を強く出しているんですね」(「Carトップ」 1986.1)。

 (ピアッツァ、アスカの)イルムシャー仕様販売のためのセールス・マニュアルによれば、イルムシャー・バージョンのターゲットユーザーは、「25〜35才の高感度なクルマ好き男性で、なかでもホンモノ指向こだわり層、イメージ追求先端層がメイン」となっている。また、ピアッツァは、「アンチ・ソアラ派、メジャーになったプレリュードも避けたい」また「レビン、トレノ、インテグラでは物足りない」人向けとしている(「ニューモデルマガジンX] No. 10 (1988.1))。

  このイルムシャーの顧客は独特で、「イルムシャーが欲しい」という指名買いが多数占め、いすゞの追跡調査によると購入者の24%が輸入車との比較の上購入を決意、また、4〜6割が「スタイルを見て」決めたということである(「日経産業新聞」 1986.3.19)。

 イルムシャー社が行ったチューニングはサスペンションのみ(企画担当者はサスペンション以外のチューニングも希望したが、いすゞの台所事情がそれを許さなかった(「Motor Fan」 1986年2月号 p. 191-193))ので、内装はいすゞが行ったが、黒を基調とし、レカロシートやモモ製の本革ハンドル等の欧州製品が多用されている。また、エクステリアは専用色塗装、特性フルホイールカバー等で、西独調を醸し出している。

 実際のチューニング内容はこちら

 イルムシャーの月間販売目標は100台。販売は1985年10月22日発表、販売は1986年11月1日に開始された。内外装を一新してヨーロッパイメージを持つクルマに仕上げられた(「日経産業新聞」 1985.10.23)ピアッツァ・イルムシャーは、1986年11月に、グッドデザイン輸送機器部門大賞に輝いた。いすゞが世に問うた、「「消費者の個性化」、「商品の差異化」にマッチした商品」(『いすゞ自動車50年史』 p. 419)として、イルムシャーは認められた。

 (追記:『光芒 : いすゞ乗用車開発の軌跡』によれば、「裏山のブドウ畑の中を走る一般道路をテストコース代わりに使ったテスト、ホッケンハイム、ニュルブルグリンク等のサーキットでの性能チェック」等が、イルムシャー社によって行われた)。

 

 

 

  lotus

新しいしなやかさ ハンドリング・バイ・ロータス仕様追加

   
 

 ハンドリング・バイ・ロータスの誕生はイルムシャーとは違ったものとなった。イルムシャー仕様が企画担当者の発案から世に出ることになったのに対し、ロータス仕様はロータス社との提携、つまりトップダウンに由来するのが大きな違いである。また、イルムシャー仕様が日本向けだったのに対し、ロータス仕様は、日本マーケットではなく、まだ活発だった米国向けマーケットをターゲットに開発、先行販売されたのも大きな違いである。

 1986年12月、いすゞはグループ・ロータス・パプリック社と10年間の提携契約を結び、同社からの技術コンサルテーション、いすゞからの新型エンジン供給など相互の協力を進めることになった。1987年2月4日基本協定に調印された(『いすゞ自動車50年史』)。同年9月にロータスのサスペンション技術を導入したロータス仕様車(handling by LOTUS)をアメリカで発売した。これは外観に比べると足回りのスポーツ感に欠けるインパルスの新車種投入を求める米販売店のリクエストに応えたもの(「日経産業新聞」 1987.7.17)。いすゞは、乗り心地などユーザーから高い評価を得たことから、徐々にロータス仕様車の輸出比率を引き上げた。ロータス仕様車は、米国の販売台数の8〜9割を占めた。これが後に日本にロータス仕様車投入のきっかけとなる(「日経産業新聞」 1988.3.26)。

 このロータス仕様を出すに当たっては、社内の「ピアッツァには、イルムシャーというバージョンがすでにあり、わざわざ同じような形でロータスのネーミングを持ったクルマを出す必要性がどこにあるのだ!!」という反対意見に対し、「ロータスのネームバリューを販売に・・・とひとりの重役が押し切った」という嘘か誠か分からない噂もあった(「ベストカー」 1987.11.26)。

  • インパルスの開発記が読みたい方はこちら
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  • 日本向けのhandling by LOTUSの話しが読みたい方はこちら
  • Irmscherとの違いを知りたい方はこちら

 

 

 

    
 
 

 何事も始まりがあれば終わりがある。ピアッツァは1990年2月に生産中止となったが、販売は1991年8月まで続けられた(ネロは1990年6月で終了)。そして、1991年9月にJT型の2代目にバトンタッチされた。インパルス等も含むピアッツァの総生産台数は113,419台(情報源はJR East Japan)。下記の表は、JR East Japan (情報源)とISUPAGE(情報源)から作成した。ヨーロッパとオーストラリアでは5,000台ぐらいしか売れなかったようですね(そのため2代目ピアッツァは、アメリカとカナダの北米だけで売られた?)。

Year Piazza Impulse
1981 9,418  
1982 10,004  
1983 5,004 8,855
1984 3,976 12,536
1985 2,782 15,288
1986 2,404 12,864
1987 2,054 7,287
1988 1,848 7,210
1989 1,302 *3,875
1990 533  
1991 85+(38)  
Totals 39,410 64,040
実際は 39,448 68,089

 下記は、最終カタログに掲載された文章であるが、何となくいすゞ自動車からピアッツァへの最終メッセージのようにも思われる。

 

ここには、時間を越えた美意識がある

1979年のジュネーブショーに
ジュージアーロがコンセプトカー「アッソ・ディ・フィオーリ」を発表し、
大きな話題を呼びました。
このコンセプトカーは同年のローマモーターショーでも展示され、
コンクール・ドゥ・エレガンスで“ペガソ賞”という大賞を受賞するなど、
カプセル・シェイプの美しいボディスタイルが絶賛されました。

1981年5月13日。
この「アッソ・ディ・フィオーリ」が現実に生産され、
ISUZUピアッツァとして正式にデビュー。
ショーモデルそのままの流麗なボディスタイルに、
これからのクルマに相応しい新しい試みが多数盛り込まれていました。
そして何よりも称賛されたのは、そのパッケージデザイン。
スポーティなクーペスタイルの中に、
大人4人が快適に寛げる居住空間とユーティリティー・スペースが確保され、
走ることがより快適であるようトータルに性能を極めていたからです。
乗る人の快適さを損なうことなく空気抵抗を減らす、
風のフォルムへのアプローチ。
ISUZUのカプセル思想は、この美しいクーペから始まったのです。
今日の、そして明日のカーデザインに影響を与え、
さらに飛躍を遂げようとしています。

(最終カタログより)

 

  

 

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