1980年6月1日、いすゞ自動車と伊藤忠商事と共同でアメリカン・イスズ・モータース(AIMI)が設立(本社ロサンゼルス)された。12月には乗用車を載せた第1船が出航し、翌1981年2月にAIMI営業開始、3月下旬には販売が開始された。当面はアイマーク(ジェミニ)とパップ(小型トラックのファスター)が取扱車種であった。しかし、4月に輸出自主規制で出鼻を挫かれる。乗用車で年間3万台の発売を計画していたにも関わらず、輸出実績が乏しいため、年間割当台数は16,800台がいすゞに割り当てられた台数だった(つまり売りたくても、これ以上売れないのだ)。そのため、ピアッツァの対米輸出は宙に浮いた形となった(以上、『いすゞ自動車50年史』と「日経産業新聞」1982.1.5より)。
しかし、1981年10月に、いすゞ自動車はピアッツァの米国市場投入を決定し、米国政府の承認を取るための準備を開始した。ピアッツァは、同年6月に日本発売してから月間1,500台で販売台数が推移したが、生産コストを下げるために月間2千台にするためでもある(「日本経済新聞」
1981.10.12)。しかし、これ以外にも重要な決定理由があった。(1)ジェミニより高価格で利益幅が大きい、ことが第一の要因である。この頃既に 5万マイルの走行テストに入っており、テスト終了次第米EPA(環境保護庁)に排ガステストを申請することになっていた。83年型からは「ジェミニ」より「ピアッツァ」を優先する形で船積みする(「日経産業新聞」
1982.1.5)ことが決められた。
ピアッツァの米国仕様「インパルス」
Impulseが初めて披露されたのは、1983年1月5日にワシントン会議センターで行われた国際モーターショー
(The National Capital Area International Auto Show)のようである。下記は、「ワシントンポスト」
1983年1月2日付に掲載された広告である。その広告によれば同年5月からインパルスを販売すると予告している。

盛大なアメリカ仕様発表パーティーを開催後、1983年5月5日、ピアッツァの米国仕様「インパルス」
Impulseが発売開始された。ベースはXLで、ボディカラーは、赤、黒、青、茶色の4色。日本仕様車との主な違いは、(1) ドアミラー標準装備、(2)新デザインのアルミホイール装着、(3)3. 5万マイルバンパー装着、及び、(4)角型4灯ヘッドライト採用したことである。目標販売台数は、月間1,100台、年間13,200台とした(「日本経済新聞」
1983.5.5朝刊)。初期の輸出台数は、1982年度下期に1,927台、1983年度上期が7,942台、1983年度下期が
6,690台となっている(『いすゞ自動車50年史』)。
インパルスは、発売後7ヶ月で販売台数12,500台を突破した。一時は最高4,800ドルのプレミアムセールを記録し、その異常な人気ぶりに米のカー&ドライバー誌も異例の特集を組んだ(「Mr.
McCOY」 1984.9)。この異常人気を一番喜んだのは恐らく約200店存在した米国ディーラーであろう。1981年4月から1982年2月までのディーラー1店当たりの月間販売台数は15台弱。ディーラーの採算ラインは月間50〜100台とされているので、ディーラーはいすゞ車だけでは経営が成り立たず、GM車も併売した苦しい経営を強いられていた(「日経産業新聞」
1982.3.20)こともあり、神風が吹いた形となった。下記は、「ニューヨークタイムズ」の1983年10月16日に掲載された広告である。

日本版「カー・アンド・ドライバー」誌1984年1月26日号に掲載されたインパルスの評判は、「DOHCでは価格が高くなりすぎるので避けたらしい(中略)。インテリアの素晴らしさは、ルックスのよさと並んでインパルスの2大セールス・ポイントである。(中略)価格は1万1695ドル(約281万円)だから、ルックスと乗り心地のいいスポーツ・クーペを求めるユーザーには素晴らしい買いモノになるだろう」。しかし、1年後(1985年1月26日号)の同誌に掲載された「海外における日本車の評判」では、一転厳しい評価となる。
ピアッツァ 抜群のスタイリングと貧弱なシャシー [米国での評価]
●素晴らしいイタリアン・スタイルをもつ新鮮なクルマですが、米国に輸入された時期が遅すぎ、タイミングを逃した感じだ。クルマ自体が時代遅れで、シャシーとエンジンに欠点が多い。あと30%ほどパワーアップすれば、米国ユーザーにアピールするでしょう。安モノのヨーロッパ車というイメージですね。(バイロン・ブロック)
●デザインは抜群なのに、内容のない見かけだおしのクルマだ。このデザインなら、それ相応のシャシー、エンジンが必要。重たすぎるサスペンションは時代遅れで、とてもエキサイティングなクルマとはいえないのが残念だ。(T.C.
ブラウン) |

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限定車 1984年
ボディカラー チャコールメタリック
ホイール JR120用フィンタイプ ゴールド塗装
サラウンドストライプ ゴールド
本革巻きシフトノブ
本革巻きステアリングホイール
専用内装
ETR付カーオーディオ グライコ付
SEステッカー
IMPULSE SE車内プレート
SEフロアマット
専用キーチェーン
*1985年の第26回東京モーターショーに出品されたピアッツァ・コンバーチブルのベース車両がこれだと言われている。 |
1985年、インパルスにはターボ車追加されることになる。続いて1987年の一時期、硬いサスペンションを持ったImpulse
RSが販売された(情報源はISUPAGE)(イルムシャーか?。[追加情報]某氏よりImpulse
RSの情報をいただきました。Impulse RSとイルムシャーのサスペンションは全くの別物で、前後コイルとショックはImpulse
RS専用のものとなります)。

1986年12月、いすゞはグループ・ロータス・パプリック社と10年間の提携契約を結び、同社からの技術コンサルテーション、いすゞからの新型エンジン供給など相互の協力を進めることになった。1987年2月4日基本協定に調印された(『いすゞ自動車50年史』)。同年9月にアメリカでロータスのサスペンション技術を導入したロータス仕様車(handling
by LOTUS)を発売した。これは外観に比べると足回りのスポーツ感に欠けるインパルスの新車種投入を求める米販売店のリクエストに応えたもの(「日経産業新聞」
1987.7.17)。いすゞは、乗り心地などユーザーから高い評価を得たことから、徐々にロータス仕様車の輸出比率を引き上げた。ロータス仕様車は、米国の販売台数の8〜9割を占めた。これが後に日本にロータス仕様車投入のきっかけとなる(「日経産業新聞」
1988.3.26)。また、同時にIsuzu Trooper(ビッグホーン)のエンジン(4ZD1)を改良した2.3L
OHCを塔載したインパルス(ノンターボ)も投入された。


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Impulse : Handling by Lotus.
Styling by Giugiaro. Rave Reviews
Reprint
from:
Motor Trend's Road Test (Feb. 1988),
Road & Track (March
1988), and
Automobile Magazine
(Feb. 1988)
PAGES:
12
SIZE:
8 1/2 X 11
販売促進用に配られたパンフレット。
3雑誌のインプレッションが復刻されている。 |
1987年7月22日に、いすゞのAIMI向け累計輸出台数が50万台を突破。1981年12月から輸出を開始し、20万台までは4年1ヶ月かかったが、50万台までは7年7ヶ月で達成。50万台目はピアッツァ(インパルス)だった(「日経産業新聞」1987.8.13)。インパルスも含むピアッツァの総生産台数は113,419台(情報源はJR
East Japan)。インパルスの販売台数はその過半数を占めた。

【インパルス販売台数】
Year |
Total |
G200Z |
4ZC1 |
4ZD1 |
1983 |
8,855 |
8,885 |
|
|
1984 |
12,536 |
12,536 |
|
|
1985 |
15,288 |
13,377 |
1,911 |
|
1986 |
12,864 |
9,648 |
3,216 |
|
1987 |
7,287 |
2,733 |
1,821 |
2,733 |
1988 |
7,210 |
|
1,803 |
5,407 |
1989 |
*3,875 |
|
969 |
2,906 |
Totals |
64,040 |
47,179 |
9,720 |
11,046 |
|
68,089 |
|
|
11,220 |
表は、ISUPAGEから転載した。実際の合計台数は黄色数字となっている。
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